夢のおわり 夜のとばり -13 将来の夢-
いつから、書くことが苦痛になったんだろう。
一行打ち込むごとにため息をついて、すぐに消してしまい、それからまた打ち込む。もう締め切りまで時間がないというのに。相変わらず筆の進みは亀の歩み。
(焦っているから余計に書き込むスピードが鈍るんだろうな)
一度ノートパソコンのディスプレイから目を離し、斜め右のテレビ上にある目覚まし時計を見た。
(見なきゃよかった……)
時間がはっきりと分かったせいで、より焦りは強い動悸となって現れる。
まだ3日ある。もう3日しかない。捉え方によって随分変わってしまうけれど。
締め切りに間に合わなかったら、今度こそ愛想を付かされるかもしれない。
「君程度の才能なら、そこらへんに吐いて捨てるほどいるんだよねえ?」
細い目を更に細め、吐き捨てるように言った編集の言葉が、今も耳に張り付いている。
青年は一度それまでに作成した文書を保存して、ノートパソコンの電源を落とした。
“一応”話は最後まで書き上げてある。ただ、このままじゃ間違いなしに不採用だろうが。
いや、書き上げてはあるんだ。何を後ろめたく思う必要がある。思おうとしても、新たな焦りと飲み込めない不安の塊を生み出すだけだ。
折角兄が留守だと言うのに。――兄は彼の本当の職業を知らない。知られてはいけないからこそ、兄がいない時しか作業は進められなかった。
「吐いて捨てる程度の才能、か」
回転椅子の背もたれに倒れ込むと、ぎりぎりと軋み音が響いた。
「お前なぁ、いつまでもフリーターでいいと思ってるのか? きちんとした職につけよな。……お袋、泣いてたぞ」
自分のことを無職だと思っている双子の兄の口癖がじりじりと骨身に染みる。
夢を見続けるのは、無駄なことでしかないのだろうか。
すっかり冷めきってしまったインスタントコーヒーを一気に飲み干した。眠気覚ましのために淹れた、砂糖もミルクも入っていない思い切り濃いだけの液体を。当然、味は期待できたものではなく、舌に痺れるような苦味だけが纏わりついた。
こんなことをしていても、時間はすぎるばかりなのに。
焦れば焦るだけ、言葉を紡ぐことが苦痛になる。
切ったばかりのパソコンの電源をもう一度入れ、背筋を伸ばした。
締め切りに間に合わないことには、何もはじまらない。
目当てのファイルを開こうとした時、来客を知らせる電子音が響いた。
こんな時に、思いながらも玄関へと向かう。既に日付が変わろうとしているというのに、随分非常識な輩だと思いながら。
「はい、どなたですか?」
「夜分遅くにすみません」
少しだけトーンの高い、少女の声でそれだけ響く。
「ご用件は?」
ドアを開けずに尋ねると思案するような間が空いた。覗き穴から外を見渡すと、そこには10代後半と思しき少女が立っている。瞳に憂いの色を帯びたなかなかの美少女だった。最も、青年の好みからは少し外れていたけれど。
気のせいだろうか、彼女はひどく疲れているようで、肩で呼吸をしているように見える。
「はっきりと確証があるわけじゃないんですけど……」
扉越しに遠慮がちな声が響く。声は乱れてはいなかった。
「多分、この部屋の方だと思うんです、このヒト」
それだけで、青年には彼女の用件が飲み込めた。
勢い良く扉を開くと、そこには想像した通りの「モノ」があった。
ドアから少し離れたところに、辛うじて座らせてある。
「確かに。コレはうちのです」
眉間に深い皺を刻みこんだ顔は、青年と瓜二つであった。
少なからず、少女は驚いた顔で青年とソレを見比べる。ソレ――泥酔して、寝こけている青年の双子の兄とを。
「なんだか、迷惑かけたみたいだね、すごく」
少女は曖昧に笑った。すぐ後に、可愛らしい小さなくしゃみを漏らす。
春先とはいえ、まだまだ深夜は肌寒い。
「とりあえず、上がって下さいな。事情はそれから」
「あ、でも……」
「ああ、別に襲ったりとかそういうのはないから大丈夫……って言っても信じらんないか。心配なら手、後ろで縛ってくれればいいから。とりあえず、ここじゃ寒いでしょ?」
「そんな心配はしてないですけど……夜遅くに迷惑なんじゃ」
「迷惑なのはここで寝こけてる奴であって、君じゃないでしょ」
「……じゃあ、お言葉に甘えて」
「どうぞ。大したものは出せないけどね」
少女の傍を通り抜け、倒れたままの兄を運ぶ。自分と同じ体重の男、しかも意識がない人間を運ぶのは、なかなか骨の折れる作業だった。
「あ、手伝います」
一度玄関まで入った少女が駆け寄るのを右手で制する。
「大丈夫、大丈夫。やっとくから。それより、……えと、名前なにちゃん? 僕は小椋涼。で、ついでにこの迷惑な奴は双子の兄貴の凛。ま、こっちは覚えなくてもいいんだけどさ」
「あ、奈奈です。織畑奈奈」
「奈奈ちゃん、敬語止めといてね。僕、馬鹿だから堅苦しいの苦手なんだ」
奈奈と名乗った少女はくすりと表情を綻ばせた。
「分かった。これでいい、涼くん?」
周囲の温度が少し上がったように錯覚するほどの暖かい笑みだった。
凛を手早くパジャマに着替えさせ寝室に寝かせておいて、涼は少女を待たせた自分の部屋へと向かった。
「ごめんね、待たせちゃって」
入ると、奈奈はノートパソコンを真剣に見入っていた。涼が入ってきたのに気付く様子もない。
「奈奈ちゃん?」
顔の前で手のひらを振って見せると、ようやく涼に気付き、飛び上がる。
「ご、ごめんなさい。勝手に見ちゃって」
「別にいいよ。大したものじゃないし」
「大したものじゃないって……これ、童話でしょう? 涼くんが書いたの?」
「そう。全く売れてないけどね、一応時々雑誌に載せてもらったりしてるんだ。……本当、これっぽっちも売れないんだけどね」
自嘲の笑みを浮かべ、涼はため息をつく。
が、奈奈は瞳をきらきらと耀かせ、涼を見た。
「そんなことないよ。すごい」
「お世辞はいいよ」
「ううん、とても素敵だと思う。わたし、お話を紡ぐことなんてできないから」
「本当に、いいんだって」
「どうして? 暖かい雰囲気で、とっても心地いいと思うよ」
言うと奈奈は、画面をゆっくりとスクロールさせながら、噛み締めるように言葉を続ける。
弟が泣いてるのに、お兄ちゃんが目の前でアイス食べだすところがすごく好き。目の前に置かれたアイスが融けるのが耐えられなくて、いつのまにか泣き止んじゃうなんて、なんだか可愛じゃない。
言葉では書いてはないけど、弟が1人で泣いてる間に、お兄ちゃんがアイス買いに行ってるところが、目に浮かんでね。自分の分と、弟の分と2つ買って。片方を弟の前に置いておくくせに、何か言うでもなく、1人でアイス食べはじめて。無表情でぶっきらぼうにね。なんだかそういうひとつひとつの仕草が可愛くて。兄弟喧嘩のお話なのに、なんだか陽だまりの匂いがするの。
ディスプレイを見たままくるくると表情を変えながら楽しそうに話す奈奈を、涼は魅入られたようにじっと見ていた。
すると、くるりと回転椅子を回し彼女は涼の瞳をまっすぐに見据えてくる。
「ただ……」
奈奈は拳を握った。
「ただ?」
問い返したものの、奈奈は「何でもない」言うと俯いてしまう。
「そうだ」
奈奈は顔を上げ、ぱちんと手を鳴らした。話を変えようというのは、見え見えだったけれど。涼は深く追求することはせず、彼女の言葉の続きを待った。言葉の続きを聞くのが怖かったのもある。
「勝手にね、コーヒー入れちゃったんだけど、飲む?」
テーブルを見ると、客人用のシンプルなうす水のマグカップが2つ並んで淡い湯気を立てている。
「ありがとう。……ごめんね、お客さんにこんなこと……って、どうして奈奈ちゃんはここに来たの?」
言ってから、順番がなんだか混ぜこぜになってしまっていることに気付いた。奈奈も同じように思ったらしく、曖昧な笑みを浮かべている。
けれど。不思議と違和感は感じなかった。リズムが合っているかもしれない。彼女と一緒に居ても、今日初めて言葉を交わしたことを忘れそうな自分が居た。
「居酒屋でわたしが絡まれてるの助けてくれたのはいいんだけど、あのヒト、その場に倒れちゃって」
恐らく、酒を飲んだのだろう。涼は思った。兄は非常に酒に弱い。どんな低アルコールなものでも1口で酔い潰れることができる特殊体質なのだ。思案する涼には気を留めず、奈奈は言葉を続ける。
「悪いとは思ったんだけどね、携帯覗かせて貰ったんだけど。何も身寄りの手がかりになりそうな情報はなくって。荷物を裁いて、手帳見てね。で、タクシー飛ばしたの。あ、お金はお兄さんのお財布から出しちゃった」
そんなことはどうでもいいんだけど。トーンを落とした声に、奈奈は涼を見た。腕を組んで、何か思案しているように見える。
「奈奈ちゃん」
「なに?」
「ここ、4階だよ?」
「うん、そうだね」
涼の言葉の意図する意味が分からず、奈奈は小さく首を傾げる。
「担いできたの?」
「まさか、流石にエレベーターで来たよ」
「それでも、エレベーターに放り込むまでや部屋の前に連れてくるまでは」
「担ぐ、っていうよりは引きずる形になっちゃったけどね」
自分より――つまり兄より頭一つ分は背が低く、華奢な彼女が、兄を必死で運ぶ姿を想像し――。涼は深々とため息をついた。身長・体重がほぼ同じ涼でさえ、兄を運ぶのは難儀だったというのに。更に小柄な少女が、1人で兄を運ぶ姿を思い浮かべ、
「奈奈ちゃん、バカでしょ」
すかさず言葉が零れる。
「ひどいなあ」
言いながらも、彼女は柔らかい表情を向けた。
「助けとか呼ぼうと思わなかったの? ほら、たとえば僕に電話するとか」
「だって、わたし、涼くんの電話番号なんて知らないもの」
「携帯見たんでしょ、兄貴の。だったら適当に知り合い呼んで任せればよかったのに」
「だって……どのヒト呼んだらいいかなんてわからないでしょう? 登録してあるからって、苦手な人がいるかもしれないし。会っちゃいけない人を呼んだら悪いじゃない」
なんだかなあ。思いながらまだ仄かに熱を帯びたコーヒーを飲み干す。
さっき自分でいれたインスタントコーヒーと同じ粉を使っているはずなのに。砂糖もミルクも入れていなくても甘く優しい味がした。
それは目の前に居る、小柄な少女の味そのものだった。
「聞いていいかな、さっきの『ただ……』の続き」
言うと、奈奈は視線を泳がせた。言葉を選ぶようにいくらか沈黙を消化した後、顔を上げ再び涼の目をまっすぐに射抜いた。
「ちょっとだけ、余裕がないかな、って思ったの」
思いもしなかった言葉に、涼は奈奈を凝視する。澄んだ鳶色の瞳に映る曇った表情の自分にハッとした。
「なんだろう。話の中で、決して出てくる2人が焦ってるわけじゃないのね? だけど、なんだか忙しない気がする。あ……ごめんね、勝手に見ておいて、こんなこと……」
「ううん、……ありがとう」
心に薄く、しかしまんべんなく広がっていた暗雲が、一斉に晴れてゆく。
状況が変化したわけではないのに。締め切りはどんどんと迫るばかりなのに。
今まで溜まっていた垢が一気にこそげ落ちたようで、肩が驚くほどに軽かった。
同時に、思いついた悪巧みに、顔の表情が緩む。
「ね、奈奈ちゃん。お世話になりっ放しで悪いんだけどさ。協力してもらえないかな?」
「何?」
「あのね。明日1日、兄貴を足止めしてくれるだけでいいんだけど……何か用事あるかな」
「わたしは別にいいけど、……何するつもりなの?」
「取材だよ」
締め切りまで時間はないけれど。無いからこそ。話を煮詰める必要がある。焦っているだけでは見えないものがある。
書いている童話の主軸は兄弟にある。
だから。
思い切り兄を怒らせよう。
兄を観察することこそが、話の種を育くむ一番の方法だ。
良からぬことを企む涼の満面の笑みに、「怪しいなあ」奈奈もつられて微笑む。
心地よかった。
一緒に笑える人がいることは、どんなに幸せなことなんだろう。涼は自分の幸福を噛み締めた。
夢を夢のまま終わらせない、そう固く心に誓いながら。
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